「いい夫婦の日」

11月ももう後半。秋冬物はもう十分揃えたし、来月からはウインターセールも始まる。お洋服大好きな女の子たちの購買意欲が落ち着き、あまりファッションビルの賑わう時期ではなかった。
斉藤有紀が勤める“cherryblossom. from your heart&little”もあるファッションビルも、例に漏れず。
もう帰りたい、自分がいてもいなくても変わらないんじゃないか。終業後に恋人の淳平宅へ寄る約束をしていた有紀の脳裏に、店長代理の身分にあるまじき思考が閉店時間までに何度過ぎっただろうか。それまでに来店客数の少ない一日だった。
しかし、ビルが閉店時間を迎えても、すぐに帰れるというわけではない。
本来であれば店長代理の有紀だけでなく店長の亜希子も出勤している日だから、二人で掛かれば日々の閉店後のルーティンワークを終わらせるのなんて一瞬だ。
しかし、今日は今月から入った新人アルバイトの女の子の教育も兼ねていた。

有紀の本来の所属は、商品企画部であり、デザイナーとして入社した身だ。商品企画を行う前に店舗で店頭業務の経験をと、店長代理として販売員を行っている。
本来の店長を勤める亜希子が「これも経験だからよろしくねぇ」と半ば強引に有紀を新人の教育係に任命し、それに則って今も彼女の横で見守りながら雑務を行っていた。
本日の売上データの集計と営業日報の数字データ書き込みという基礎中の基礎を、彼女はもう習得したようだった。
作業スピードはまだまだ改善の余地が見えるが、何をやれば良いかはすっかり覚えて余裕すらあるようで、営業日報のフォーマットに書き込みをしていた彼女が口を開いた。
「今日はいい夫婦の日だそうですよぉ」
朝、テレビでやってました、と続ける。日付を書きながら思い当ったことをそのまま口から出したらしい。

11月22日はいい夫婦の日。
1と2がぞろ目で仲良く並んでいる姿がまるで、という単純な語呂合わせだ。
ほとんどの相手にとってはただの雑談の種に過ぎない話題だが、それを聞いた亜希子はたっぷり一分間ほど固まった。

店長を務める亜希子は、十歳は若く見えるが三十四歳、独身。彼氏なし。
まだ二十代半ばの初々しい青年期の有紀には恋人がいたが、夫婦というものには縁遠かった。相手は子持ち男性である。
有紀の同性の恋人(しかも出会いはお店のお客様だ!)に関しては、職場では仲の良い亜希子しか知らない話だから置いておくとしても。
さすがに十歳以上も年上の独身女性の前で、その話題は……。若さゆえの無敵さかしら…と亜希子は遠い目になった。
まったく意識すらしていないのだ。亜希子だって十代の頃に似たようなことをやらかした覚えがある。
亜希子がどうしようか、と書類を記入する手を止めたその時、それまで無言でノートパソコンに向かっていた有紀がクスクスと笑い始めた。

「いい夫婦の日ですか。夫婦になれない亜希子店長には関係ないお話ですねぇ」
「ちょっと有紀!私は結婚出来ないんじゃなくて、しないだけよ!」
おっとりとした口調で有紀がいう。亜希子はそれに大袈裟なまでに眉を顰めてぷりぷりと怒った。
有紀は笑顔で受け流すが、新人の彼女はしまったといわんばかりの表情になる。
「ふふ、女性は大変ですね」
だからこういうのは控えておきましょう、と有紀は唇の前に人差し指を立てて、失言に気付いてしまった少女に向き直る。ね、と駄目押しといわんばかりに冗談めかして仕草でウインクを投げれば、少女は赤面してこくこくと頷いた。


新人のみ定時だからと帰らせて、二人になった途端。亜希子は両手を合わせて、勢いよく頭を下げた。
「有紀っ、さっきはありがと!助かったわ」
「そんな、全然!僕だって、あんまり愉快な話題ではありませんでしたし」
新人の上げた書類をチェックしながら有紀は笑った。むしろ、冗談めかしたとはいえ失礼な物言いでしたと謝罪をする。
亜希子はあまりに優等生じみた有紀の様子を見て、切な気に眉を顰めた。
「有紀のほうが、嫌な話題だったわよね…。私はさ、結婚しようと思えば、出来るから」
亜希子は目を伏せて言った。自分は相手がいないだけだ。
しかし有紀には愛し合っている相手がいるにも関わらず、同性というだけで二人は夫婦になれない。亜希子から見ればそのほうが辛そうなものだが、有紀はなんでもないような涼しい表情で冗談めかす。
「あら。出来るんですか?」
「失礼ね!しようと思えば、こんな美人!いくらだって相手はいるわよ!」
そう言って胸を張る亜希子は、確かに美人だった。
跳ね上げたアイラインと深い赤の口紅がよく似合う。丁寧にセットされた栗色のロングヘアー。脚に馴染んだハイヒール。レトロな洋画のヒロイン女優のようだ。亜希子に憧れて店に通う客も多い。若い女の子に人気のアパレルブランドで、三十代でなお店長を続けているだけはあった。
「そうですね、亜希子店長ほどのお人であれば、相手は履いて捨てるほどいるでしょうね」
「でしょう!まぁ、有紀もモテそうだけどさぁ」
「うーん、モテますよ。中性的なのが好きな女性にはいいみたいです」
さらりと言った有紀に、亜希子は面食らった。まぁ、この子なら言いそうだけど。事実ですから、なんて。
亜希子から見ても、有紀は整った容貌をしていた。
性別などどこかへ置いてきたような、透明感のある中性的な美貌は異性受けも良い。ふわりとした巻き毛と、甘いたれ目のふちに泣き黒子。ユニセックスファッション。穏やかに澄んだ声。人当たりがよく、漢臭さがまったくないところに惹かれるという女性も多かった。
「確かに有紀も美人ね。まぁ、私は男らしいのが好きだけど。男の筋肉こそ芸術よ!」
書類を記入していた亜希子が、手の中のボールペンを握りつぶしそうな熱の篭った声をあげた。
「極限まで鍛え上げられた肉体美!私なんて片手でひょいって抱えちゃいそうな逞しさ!」
熱い吐息とともに亜希子がうっとりとした声をあげた。
美人の亜希子がこの歳まで独身を貫いた原因はそこにあるのだが、筋肉ガチムチへの愛情を聞きなれている有紀はスルーして資料のファイリングを続ける。商品企画部から送られてきた入荷予定の商品の一覧。「これ売れるでしょうね…どこに展開しましょうか」と独り言を漏らして完全に仕事モードだった。
そんな有紀をちらりと見て、亜希子は大袈裟にため息を吐いた。
「冷たいわ。ゲイは女の子に冷たいのね」
「ゲイ……ではないですよ、多分。淳平さん以外の男性に興味はありませんから」
淳平に惹かれた。
最初は、子供たちを真摯に愛する父親としての彼へ。知っていくうちに一人の男性として。いつのまにか、初めて同性相手への恋愛感情を懐いた。恋しいと思う男も、隣にいたいと思う男も、有紀にとっては淳平だけだった。
きっと、これからも――

「惚気かよ」
「亜希子店長、口調崩壊してます」
「知らないわ。ああもう、あんたたちが夫婦になれないなんて変な世の中ね」
「ふふ、そうですね、変な世の中ですねぇ」
「子供もいるのにね」
「そうですね。なれるのであれば、あの子達の親には、なりたいかもしれません」
有紀の声色にかすかに優しいものが混じって、亜希子はその表情を盗み見た。慈しむような、愛するものを思う人間の優しい表情。
有紀個人としては、淳平と夫婦になれたらだなんて願望を持ったことはないし、亡くなった彼の妻へのわだかまりもなかった。
多忙な芸術家の両親に育てられて愛情ある家庭に縁遠かったこともあり、元から結婚願望の希薄な人間だった。
しかし、子供たちのことは別だ。「ユキさん」「ユキちゃん」と懐いてくる子供たちは、いつのまにか有紀にとっても愛おしい存在になっていた。淳平と共に、あの子達の成長を見守れたら。亡き母親の代わりに……。そう思わないこともない。
「パパが二人になっちゃいますね」
「あれ、有紀はママじゃないの?後妻みたいな」
「やだ。僕は男ですよ」
ちがうの?と本気じみた顔でいう亜希子に有紀は苦笑した。
ファッションとしての中性的な容貌や、穏やかな物腰のために女性だと勘違いを受けることもあるけれど、有紀はれっきとした男性だ。女性になりたいわけでも、内面までも中性化したいわけではない。なるのであれば父親がいい。
「でも抱かれるほうでしょ?」
「ちょっ、亜希子店長!?」
さらっと言われた発言に、有紀は思わず叫んだ。
大きな目を白黒させて、耳まで赤く染めて図星ですといわんばかりの判り易いリアクションに、亜希子は腹を抱えて笑う。
「有紀は可愛いものね。私なんかよりもずっと」
笑いすぎて涙の滲んだ目元を押さえながら、亜希子が悪戯っぽく笑った。
「なんですかそれ…亜希子店長のほうが可愛い女の子って感じじゃないですか…」
「そうじゃなくて、なんていうか、言動が可愛い。私でも抱きたくなるわ」
からかうような年上女性の言葉に、小さく唸って有紀は黙り込んだ。その素直な反応が亜希子のいう「言動が可愛い」なのだが、そこまで指摘してしまえば有紀は必死に抑えようとするだろう。亜希子は今後も可愛らしい年下の男の子を愛でるために、そこで黙った。
人の悪い笑みを浮かべる亜希子に、有紀は頭を抱えたい気分になった。この女性には勝てない。今までもそうだったし、多分これからも。
有紀は苦い顔をしつつも、仕事の手は止めなかった。最後の資料を分けて閉じて、有紀の本日の業務は終了。亜希子のほうはというと、メールを送信し終えてノートパソコンを閉じたところだった。
「さぁもう、帰りましょう」
話題を変えるように有紀が言う。まだ耳の先は赤いままだ。
「そうね。この後あいてたら一杯どう?」
タイムカードを打刻して荷物をまとめながら、亜希子が軽い口調で誘いをかける。月に二回程度の頻度で仕事終わりにふらりと二人で寄り道をしているが、今日の有紀には先約があった。
「お誘いは嬉しいのですが、今日は旦那の家に行くので」
「あら残念」
いつのまにやら平常心を取り戻した有紀の、ジョークの流れを汲んだ返事に亜希子は肩をすくめた。
明日ならば、という有紀の提案は亜希子の予定と被っている。飲み会という名の合コンだ。
陸上自衛隊の面々とセッティングしてもらったというそれへの期待高ぶる亜希子の熱弁を聞き流しながら、有紀は一週間ぶりに会う恋人とその子供たちへのことへ思いを馳せる。もう遅い時間になってしまったから、子供たちは眠りに付いているだろう時間だが、寝顔だけでも有紀の疲れを癒すには十分だ。
職場のファッションビルを出て、まだまだ続く亜希子の筋肉愛の熱い語りをBGMに有紀は携帯電話を開いた。淳平からのメールと、その愛娘の愛実からSNSアプリケーションでのメッセージが届いている。
淳平からのメールは、仕事を終えた有紀への労いと、食事がまだだったら食べて、というシンプルで愛情のあるメールだった。短い文面にひとつだけひよこの絵文字がついている。淳平なりに何か飾り気を出したつもりらしい。
子供たちへの愛のみで腕をあげてきた淳平の手料理は、けして豪勢といえるものではなかったが、温かみのある味で有紀のお気に入りのひとつだった。仕事後の遅い時間に淳平の家へ行くといつも、残り物と称された有紀の好みを考慮した暖かい手料理が並べられる。

愛美からのメッセージを開くと、『ユキちゃんにプレゼントがあるの』と一言だけ書かれていた。愛実らしい簡素なメッセージ。照れながらもじもじと言う愛実の姿が目に浮かぶようだ。
可愛らしいメッセージに思わず有紀の頬が緩むと、隣を歩く亜希子から野次が飛ぶ。
「なにニヤついてるのよ、彼氏からぁ?」
「彼氏の可愛い子ちゃんからです」
ふふ、と笑う有紀の肩を亜希子が小突く。私も子供欲しいわ!と悔しそうに叫ぶ亜希子に、それなら急いだほうがいいですよ、と有紀はブラックな軽口で応戦した。
駅まで向かって改札前で由紀子と別れた後は、有紀の足取りが自然に早まった。
淳平宅はすぐ隣の駅だ。駅に着いて外へ出ると、ここ数週間で一気に冬めいた夜風に襲われた。コートまでしっかり着込んでいるのに、冷たい風が刺さるようだ。思わず、寒い……と呟いてから、コートの襟元の合わせをなおす。有紀は小走りで淳平の住むマンションへ向かった。

マンションのエントランスに入ってやっと北風から逃れられた。
もっと暖かい家を求めて、セキュリティボードに淳平宅の部屋番号を入力して呼び出す。淳平が応答するのが恒例となっていたから、インターフォンから愛美の声が聞こえて有紀は驚いた。
「愛美ちゃん、起きていたの?」
『うん。ユキさんにプレゼントがあるって言ったでしょう、待ってたの』
はやくはやく、と急かす声と共にオートロックドアの解除を示す音がした。その中に滑り込んで、足音を響かせないように気を使いつつ、あと少しを急ぐ。
玄関前まできてから扉隣のインターフォンを押すと、返答の前にすぐ扉が開かれた。
「ユキさん、こんばんは」
オートロックの解錠時から玄関で待ち構えていた愛実が、えへへ、と満面の笑みで出迎えた。
足元で塚田家の愛犬のまめ太が尻尾を振っている。
「こんばんは。遅くまで待っててくれて、ありがとう」
「わたしが待ちたかったのっ。お仕事おつかれさま。お鞄持つよ」
子供特有の高く愛らしい声。靴を脱ぐ有紀の横ではしゃぎまわる。
ワンピースにポンチョを組み合わせた形のパジャマは、先日有紀が愛実にプレゼントしたものだ。まめ太もお馴染みの来客に尻尾を振って歓迎する。
「おお、有紀ちゃんおかえり」
のんびりとした声と共に、エプロン姿の淳平が顔を出す。有紀の分の食事の準備をしていたらしい。
「飯あるけど……先に愛実の用事から、かな」
待ちわびた有紀にくっつきながらも、ちいさく欠伸をした娘に淳平は苦笑した。普段は午後九時には就寝している愛実には、もう眠気に耐えられない時間らしい。おぼつかない足取りの愛実に手を引かれて、有紀は苦笑を漏らす。
「本当に遅い時間でごめんね」
「ううん、平気。わたしが待ちたかったんだもん」
有紀を見上げる顔は襲ってくる睡魔を隠しきれていないながらも、満足感でいっぱいだった。
会社員の淳平などと比べて、販売員の有紀は終業時間が遅い。早番の日はまだしも、今日のように閉店後までの勤務の後だと、淳平宅へ寄っても起きている子供たちに会えることはほとんどなかった。
「ほんとはね、良太も起きてる予定だったんだけど…」
「まぁ、仕方ないさ。良太も頑張ってたんだけど、寝ちゃったよ」
淳平が、前半は寝惚け眼を擦りながらしょんぼりする娘へ、後半は眉尻を下げて笑う恋人へ向けて言う。弟の良太も一緒に有紀を待つと意気込んでいたが、齢五歳の彼に夜更かしは辛かったらしい。リビングのソファーで寝落ちてしまったのを、淳平が子供部屋のベッドまで運んだのだったがほんの三十分前だ。健闘したほうだ。
リビングに入ってすぐ、出迎えの役目を終えたといわんばかりのまめ太は、彼用に置かれたクッションの上で丸くなった。子供たちの生活リズムに合わせた生活をしている愛犬にとっても、もう遅い時間なのだろう。

愛実に促されて、有紀はソファーに腰掛けた。淳平もエプロンを外して座る。
職業病か、つい気になってしまって、淳平が適当に置いたエプロンを有紀が畳み直した。抜群の座り心地に、肌触りのよいソファーカバー。実はカバーリングの下には、子供たちの手による消えない悪戯描きが残っている。
「ユキさんはここで待ってて。ぱぱも」
隣に座る淳平は、愛実のいう有紀へのプレゼントの内容を知っているのだろう。本人は隠しているつもりであろうが、唇の端が弧を描くのを堪え切れていない。有紀の心も温かくなって微笑みが零れる。
すぐに戻ってきた愛実は丸められた画用紙を二枚ほど抱えていた。
はにかんだ愛実が抱えるそれが、プレゼントか。有紀は微笑んで、愛実が切り出すのを待った。

「いい夫婦の日だからって、良太が幼稚園で描いたんだって。おとうさんとおかあさんを描いてプレゼントしましょうって。それが、こっち」
そういって、ソファー前のテーブルの上に画用紙が一枚広げられる。
それを見た瞬間、有紀は息を飲んだ。
ぐりぐりと塗るように描き込まれたクレヨン画だが、大きく描かれた人間ふたりが手を繋いでいるのが見て取れた。髪の部分を黒で描いた人間と、茶色で描いた人間と。誰を描いたのかきちんと伝わる。五歳児のおえかきにしては、上手い部類に入るのではないだろうか。
「それ聞いて、わたしも描いたの……ぱぱと、ユキさん」
照れ笑いと共に広げられた二枚目は、色鉛筆で丁寧に描かれていた。
小学生の女の子らしく可愛らしい絵柄で、上手に特徴を捕らえている。描かれた淳平と有紀が、晴れやかな表情で笑っていた。背景に描かれたピンク色の花はチェリーブロッサムを意識したのか。その上に丸っこい文字で「ぱぱとゆきさん」と書かれている。
有紀は両目を見開いたまま、画用紙と愛実の顔とを交互に見た。
良太の絵を出された時から瞬きすら忘れていた。
もらって、くれる?という愛実の言葉が、まるで有紀を包み込むようだった。
ふふ、と満足げに頬を染める愛実。隣の淳平を見やれば、この上なく優しく穏やかな目でこちらを見ている。湧き上がる喜びで表情が崩壊しそうで、思わず両手で口を押さえた。声にもならない声は抑え切れなかった。
「まなみちゃ…良太くん……ありがとう」
目頭が熱くなる。有紀は瞳を潤ませながら、やっとそれだけ言葉を搾り出した。小さく震える有紀の頭をぽんぽんと淳平の大きな手が撫でる。有紀は小さく呻いてそのまま淳平の胸に顔を押し付けた。耐え切れなかった零れる水分が淳平のTシャツに染み込む。布越しの高い体温を感じて、有紀の肩がさらに震えた。

「ユキさん?」
淳平は、想像以上の有紀の反応におろおろし始めた愛娘の髪も撫でてやる。
大丈夫ですぅ、と情けない声をあげてふるふると頭を振る有紀。右手が耐えるように淳平の衣服を掴む。
「よかったなぁ。有紀ちゃん嬉しいんだってさ」
「ほんとに?よかった」
ニカっと笑う淳平と、まだ顔は隠したままだが激しく頷く有紀とに、愛実はあからさまに安堵した。
目的を達成したらまた眠気が戻ってきたようで、もう愛実の目は半分も開いていなかった。ふにゃりと満足した表情。
淳平は「絶対直接渡すの」と夕方から意気込んでいた愛実の姿を思い出して目を細めた。良太が幼稚園で両親の絵を描いてきたと聞いた時は、息子の心中を思ってやりきれない気持ちになったが、良太は淳平と有紀を描いたのだと自慢げに言った。ユキちゃんにあげるのと威張る良太に、わたしも!と画用紙と色鉛筆セットを引っ張り出してきた愛実と。
「ん……、安心したらねむくなってきた…」
「もうこんな時間だもんな。寝るか?今日はよくがんばったなぁ」
「うん…。ねる……おやすみなさい」
ほとんど夢心地の愛実は、ぼんやりと頷いて子供部屋に向かった。ぺこりとおじぎ付きのおやすみの挨拶と、ふぁぁと特大の欠伸をしてリビングを出る。
ぱたん、と扉が閉まった音に、有紀の肩が揺れた。

「愛実出て行ったよ、そろそろ顔上げねぇ?」
「だめです。まだお見せ出来る顔じゃないです…」
淳平は苦笑して、自分にしがみついたままの有紀の髪を梳いた。ふわふわとした柔らかい手触りのそれの、合間の耳たぶに触れると驚くほど熱くなっている。
「耳熱いよ。まだ顔真っ赤?」
揶揄するような淳平の言葉への抗議か、額を淳平の胸に擦り付けるように有紀が頭を動かした。幼げな行動に淳平は有紀に気付かれぬように小さく笑った。
出会った頃の優雅な販売員の姿とは程遠かった。淳平も深い仲になって初めて知ったが、有紀は心を許した相手には感情表現の豊かな可愛らしい一面を見せる。普段は穏やかに微笑んでいるくせに、余裕ぶった表情を見せるくせに、たまに驚くほど子供っぽい。
まぁ、落ち着くまではこのままで。淳平は微笑を浮かべながら、すっかり頑なになった恋人を溶かすように飴色の柔らかい髪を撫で続けた。


しばらく続けると、急に有紀が身体を離した。姿勢を整えてから「ありがとうございました」とすっかり普段通りの綺麗な表情で微笑む。
あまりの変わり身に淳平が面食らっているうちに、有紀は視線をテーブルの絵に移した。
「二人ともお上手ですね」
感慨深げにそう言う声は、いつもの穏やかに澄んだ響きに限りない慈愛がこもっている。有紀の細長い指が、まるで宝物にでも触れるように、そっと画用紙を手に取った。そこに込められた子供たちからの愛情に目を細める。
「二人とも、優しい子だろ」
淳平は愛しげに絵を見つめる有紀の肩に腕を回して、邪魔をしないように気を付けながら身を寄せた。淳平よりも低い体温を持つ筈の身体が、今はほんのりと熱くなっている。
「詩帆さんじゃなく僕を描いてくれたのは……詩帆さんに申し訳ない気もします」
吐息と共に吐かれたそれも、有紀の本音だった。
淳平の妻で愛実と良太の母親の詩帆は、ちょうど愛実が良太の年の頃に亡くなった。母親の温もりを一番に欲しがる年齢で母を失ったのだ。「おとうさんとおかあさんを描きましょう」など、良太にとって残酷な行事に違いなかった。しかし、良太はそこで父親と有紀とを描いたのだ。悲しみや心の穴を誤魔化して絵描いたのだったら、こんなに明るく力強い絵にはならなかっただろう。
「詩帆は愛実の母親だよ。愛実によく似たひとだ」
有紀の肩口に顔を埋めた淳平が言う。言外に含まれた淳平の優しさに、有紀はほうっと息を吐いた。愛実が描いたという色鉛筆の線をそっと指先でなぞってから、画用紙をテーブルに戻す。
それが合図のように淳平は有紀の身体を腕の中に引き込んだ。強くなった恋人の匂いと体温に包まれて有紀の表情が綻ぶ。まるで添って作られたかのようだった。しっくりと収まる。温かい。
「今日、職場でもいい夫婦の日の話をしたんですよ」
「へぇ」
「亜希子店長に、有紀はあまり聞きたくない話だったでしょうと言われたんですが。僕は別に淳平さんと結婚できないからどうこうなんて、そんなつもりはなかったんです」
ゆっくりと語る有紀の言葉を、淳平はその身体を抱いたまま聞いた。
「でも、子供たちの父親にはなりたいって、いうのは言いました」
「子供たちにとっては、もう、そうらしいな」
「ええ…。本当に、嬉しいです。僕でいいのかな、とも思いますが」
「俺は有紀ちゃん“が”いいけど」
有紀の穏やかな声に、暗さはまったく見られなかった。淳平も撫でるような甘い声で否定して、また言葉の続きを待つ。
「やだな。それじゃまるで僕が淳平さんの父親になるみたいじゃないですか」
くすくすと笑う有紀。それは嫌だな、と淳平も笑う。そっと腕を離して有紀の身体を解放して、淳平は立ち上がった。名残惜しげな表情で見上げる有紀と視線が重なる。素直で愛らしいと、思う。
「飯食うだろ?シチューだけど」
「ありがとうございます。僕、淳平さんの料理だいすきですよ」
そう言ってふわりと笑う。有紀も立ち上がって淳平の後を追った。


エプロンを淳平に手渡し、早々とリビングから繋がるダイニングテーブルへ着いた有紀は、嬉々として淳平が鍋に火を入れる後ろ姿を眺めた。手伝いはしないし、淳平も求めない。現代男の一人暮らしを体現する有紀はほとんど台所に立たない。以前料理の手伝いをして結果的に淳平の仕事を増やしてしまった時から、すっかり有紀は食べる専門と化している。
待ち構える有紀の前にすぐに食事の皿が差し出された。夕飯の残りを温めなおしたホワイトシチューだが、有紀の好物のじゃがいもが多めに盛られているのに気付いて頬を綻ばせる。添えられたパンも好みの薄切りのバケットトーストだ。
有紀は手を合わせていただきますをしてからスプーンを手に取った。一口食べて微笑む。
「美味しいです。じゃがいも柔らかい」
「そりゃよかった」
キッチンでまだ作業を続ける淳平が、振り返ってくしゃりと笑った。温かいシチューの風味と共に有紀の胸に幸福感が広がる。
そのまま黙々とシチューを咀嚼していた有紀だったが、ふと、手を止めた。淳平を見遣れば洗い物をしているようで、小さく食器の擦れる音とシンクに水の跳ねる音が聞こえる。蛇口を捻って音が止んだのを見計らって、有紀が躊躇いがちに呟いた。
「淳平さん。あの……今日は泊まっていっても、いいですか」
控えめに言われたそれに、今度は淳平の手が止まる。振り返って有紀を見ても、距離と少し俯いているのとで表情までは窺えなかった。丁度後片付けの切りが付いた所だった。淳平は自分用のマグカップを抱えて、有紀の向かい側に座った。
まるで少年のような悪戯っぽい淳平の笑みと共に、コトンと置かれたマグカップ。漂う薫りからその中身がコーヒーだと気付いて、有紀は目元を赤く染めた。
「俺は最初っからそのつもりだったけど。有紀ちゃんも飲む?」
「僕は大丈夫です。その、眠くないですし。シチューの味わからなくなっちゃいます」
「じゃ朝にする?二人でモーニングコーヒー飲もっか」
「淳平さんおっさんくさいです。それ、最近の若い子には通じないと思いますよ」
「俺おっさんだもん。他の奴に言わねぇし、有紀に通じれば十分」
駄目押しのように言って、淳平は邪気のない笑みを見せた。その表情と発言内容のギャップ。有紀の目元はまだ赤く染まったままだった。落ち着かない心音を誤魔化すように、有紀はシチューの残りを口に運んだ。



――俺は有紀ちゃん“が”いいけど。
先程の淳平の言葉を思い出す。あまりに甘ったるい空気に照れて、冗談にして流してしまった。
――あんたたちが夫婦になれないなんて変な世の中ね。
亜希子とそんな話をしていたその時は、本当に別に夫婦になりたいだなんて願望はなかったのだ。

有紀はベッドに横たわったまま、事後の気怠さの中でぼんやりと考えていた。冬用の暖かく肌触りのいい寝具に潜り込むと、くったりと力の抜けきった肢体を優しく包んだ。
淳平は普段の温和な父親の顔とは対照的に、容赦のないまでにねちっこく有紀を弄んだ。酷く有紀を責め立てた張本人の淳平は、本当にコーヒーを淹れると張り切って寝室を出て行った。モーニングコーヒーというのは直後に飲むものではない、という突っ込みを入れる気力もなかった有紀は、ううとかああだのの返事にもならない声を上げて淳平を見送った。
このまま眠ってしまいそうだった。淳平に分け与えられた体温をつれて、夢とうつつの間で彷徨う。あたたかい。
淳平に愛されて、愛して、子供たちを慈しんで、温かい食事とベッドがあって。有紀はそれに馴染み切った自分に気付いて、狼狽えた。そうして、それを手放したくないとも思っていた。
小さく音を立てて、寝室の扉が開いた。淳平が抱えているトレイには二人分のマグカップが乗っていた。少し横になって回復した有紀は、今度こそ真夜中のモーニングコーヒーについて一言言ってやろうと布団から顔を出す。すると、ふわりと鼻腔を擽ったのは、想像していたような香ばしさではなく、甘い……。
「はちみつ、ですか…?」
「そうそう。淹れようとして気付いたけど、寝る直前にコーヒー飲んでもなぁ。だからハニーレモンにしてみた。甘いよ。有紀ちゃんいっぱい喘いだから、喉に優しくしたほうがいい」
とろけそうなほど優しい笑顔の淳平が有紀の髪に触れる。差し出されたマグカップをとろりとした黄金色が満たしていた。
気付くの遅いです、恥ずかしいこと言わないで下さい、などと、普段の有紀なら言っていた。しかし、心まで包み込むような甘い匂いに包まれて、有紀の口から零れたのは素直な気持ちだった。
夢見心地の濡れた瞳が、淳平を見つめる。
「すき…です……。淳平さんが…大好きです……」
潤ったさくら色の唇が可愛らしい言葉を紡いで、淳平はそれを奪って慈しんだ。

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