木漏れ日

 トースターが家に来てからというもの、颯太の朝食は決まってパン食になっていたようだ。
 元々幸緒の家にトースターは必要がなかった。幸緒がパンを食すことが無いわけではないが、根本的に米すらあまり好んで食わない。主菜さえ確保出来てしまえば炭水化物など口直しでしかないとすら思っている。そもそも口直し程度なら水を飲めば事足りてしまう為に、米や小麦の存在意義が理解出来なかった。
 バターを薄く塗っただけのトーストを大層旨そうに頬張る颯太を上目遣い、幸緒は茶漬けを啜った。
 炭水化物の有難みは丼や雑炊、うどんの様な、それがメインの料理に限られる。特に幸緒は鍋物に白飯を入れると食が進むようで、颯太にいつもより加減せずに椀へよそわれても残した事が無い。茶漬けは、こうでもしないと米を食おうとしないが為の颯太の策だった。

 久方振り、午前七時の起床。朝日とは、存外に眩しいものだ。
 いつもこの時間に颯太に一度起こされるが、直ぐに眠気に負けて二度寝してしまう。それゆえ、この時間の颯太の行動様式をあまりよく知らなかった。最後に颯太と共に朝食をとったのはいつだったろう。颯太が朝にパンを好んで食べる事も、つい先日知ったくらいだ。幸緒がまだ教職をやっていた頃、幼少の颯太に与えていた朝飯と言えば、幸緒が簡単に作った味のまちまちな味噌汁に焼き魚が定番だった。
 彼の好みを知るや否や、すぐにこのトースターを買い与えるため颯太を連れ出した。
 初めて電化製品を買い与えた時と同様の素早さと慌てぶりだった。

 家電など無くても何とかなる。事実、幸緒の場合は何とかなっていた。洗濯であれば、盥に雨水を溜め、石鹸をその中に落としてから着物を投げ込む。そのまま自分の身体を洗ってしまう事もあった。ボウフラが涌くと陰気なので、溜めた水はその日に使いきってしまう。東京に住居を構えているにも関わらず、何処ぞの山奥で隠居をしているような暮らしぶりだった。
 和服の利点はここにあるとさえ思っていた。洋服にこれをやると、寝敷きをしてもどうにもならない皺がつくのだ。それゆえ、教職時代に通勤のため三着用意してあったスーツについては、わざわざ横浜まで赴いて馴染みの仕立屋で洗濯してもらっていた。
 颯太に家事を一任するようになってからは、その洗濯の仕方も変わった。布に合わせて洗濯剤を買い分け、雨水でなく少量の上水を使った。
 幸緒は所持している衣類のすべてを同じ要領で適当に洗っていた。木綿の和服であればその杜撰な扱いでも何とかなっていたが、近年〝ス・フ〟と呼ばれている化学繊維素材のものは色落ちや解れ縮みが甚だしい。幸緒も流石に気付かないことはなかったが、着物など着られさえすればよいと無理矢理に着ていた。しかしその風采は颯太に言わせれば「乞食でもあるまいし」である。身形について然程気を遣わない幸緒でもかなり堪える発言だった。
 家事に関しては生家に数年間だけいた女中の見様見真似と颯太は言うが、初恵との井戸端会議や雑誌などからも日に日に知識を吸収しているようである。こんにちではやりようの知らぬ幸緒が下手に手伝おうとすると叱られる為に、最早家事について口も手も出せぬ状態であった。

 颯太が八つの年だったろうか。真冬に彼の手が見るにも堪えぬほどに荒れたのがきっかけだった。明らかに水仕事の所為だ。子供の、繊細な肌である。幸緒は颯太の白い肌が特に気に入っていた。
 苦労をさせたと涙目で右往左往し、以前に一史から小耳に挟んでいた〝電気洗濯機〟なるものを求め、颯太を連れて街へ飛び出した。
 浅草の一等栄えた通りで、漸く電気店を見付けた。山中商会と看板に書かれたその店は、ラジオの部品を主に販売する卸問屋だった。
 木製カバーのラジオの見本品と、トランジスタや配線、その他なにやら得体も知れぬ部品が棚の多くを占領する中で、件の電気洗濯機も並べてあった。円柱型の大きなアルミ缶と、同じく金属製らしき球体の上にハンドルが付いたもの。店主によればどちらも〝洗濯機〟だそうだ。
 他に比べて値段の安い球体の前に颯太が近付く。一度幸緒を振り返り、またまじまじとその商品を見る。
「そっちの丸いのは手回しでね、電気じゃないよ。ああ、脱水はいつものローラーでやってね」
 カウンターの奥から飛んできた店主の発言にふんふんと頷く颯太。一方、幸緒には半分も理解できなかった。
 ローラーというのは、恐らく颯太に買い与えた脱水機の事なのだろう。自宅の家事を一手に引き受けている初恵が「手で絞るよりもよっぽど楽だわ」とそれを称した。ならば手に入れねばと幸緒は街へ探しに出掛けたが、〝ローラー〟の具体的な用途も姿形も分からなかった為に、二刻を回るほど街を彷徨った覚えがある。
 幸緒は機械を魔法か何かだと認識している節がある。その為に、複雑そうな絡繰を持つ機械であればすべての工程を自動でやってくれるものと思い込んでいた。しかし、店主の発言からするに電気がなければそうでもないらしい。電気と絡繰の区別が付かない幸緒は首を捻った。
「電気でなくて、何か不都合が?」
「結局手回しだと人間の労力が今までと大して変わらんのじゃないかな。回す、まあ、洗うとこまで機械でやってくれるのが、電気洗濯機って奴よ。それと比べちゃあねえ。ああ、電気の奴も脱水はローラーでやってね」
 蟠りは残るが、何と無く合点がいった。機械にも様々種類があって、要するに絡繰より電気の方が楽なのだ。
 幸緒は後ろから颯太を抱えてひょいと持ち上げ、円筒の機械の前で下ろした。さも当たり前の様な所作で電気洗濯機の前に連れてこられた颯太の視線が、第一に値札に向かう。幸緒の給料では一年分割払いで何ともならないような金額が目に飛び込んできた。
 途端に幸緒の腕の中で無言でもがく颯太。しかし幸緒もなかなかの抵抗を見せた為に、やがて諦めると、幸緒をじとっとした目つきで睨んだ。
 未だ赤くただれたようになっている颯太の手に幸緒の骨張った指先が触れる。幸緒は眉間に皺を寄せ、視線を傍に逸らした。颯太もつられて俯く。
「……先生、とても、こんなのはいけないと思います」
「遠慮など、してくれるな。君に労働を強いるばかりでは僕だって居心地が悪いのだ」
 颯太はまだ頬を膨らませている。幸緒は咳払いをひとつすると声を低くした。
「現実的な話が好きかね。抑も、僕ひとりでは頂いた給金を遣い切れんのだ。一括で買えるだけの金はある」
 颯太は口を噤むしかなかった。幸緒の過度に質素な生活を思い返す。一汁一菜、欲しいものは書籍と文房具程度。幸緒が本当は大酒飲みである事を颯太は知っているが、度数の強いものを好んで呑む為、チェイサーも無しに二杯で胃を痛めるか酔い潰れるかして伸びてしまう。電気など殆ど点けず、真夜中でも蝋燭で読み書きを済ませるような時代錯誤っぷりだ。あれのどこに金を遣っているのか、確かに解らない。
 渋々諦めましたよ、と言わんばかりの顔を幸緒に見せる。「よしきた」と幸緒は颯太の頭を撫でた。
 配送は店の人間に任せて幸緒が颯太と手を繋ぐと、颯太はスキップで家路についた。

 洗濯機を初めて動かした日も、幸緒がトースターに食パンを恐る恐る入れてみた日も、すぐ傍にはいつも颯太のぱっと輝く笑顔。幸緒にとってはそのひとつひとつが大事な出来事だった。
 トースターは朝日を受けて銀に照り返している。幸緒の口からふっと笑みが零れた。そんな事もあったと、いつか彼とのいい思い出話になろう。
 幸緒が過去に耽って完食し切らないうちに、颯太はさっさと自分の分の片付けを始めてしまった。それから、洗濯籠を抱え土間へ向かい、今度は箒と塵取りを持って廊下を駆け、左に着けた腕時計をちらちらと見ながら忙しなく部屋を行き来する。幸緒はその様子を見て、自分までどうにも焦ってしまった。
 幸緒が丁度食べる行為に飽き始めた頃合いを見計らい、「失礼します」と一言、颯太は幸緒から椀を取り上げ冷たくなった茶漬けの残りをかき込んだ。
「疲れんかね。時間に縛られているように見える」
「毎日の習慣を的確にこなすと落ち着くのです」
 そういう意図で言ったわけじゃない。幸緒は大きく溜息を吐き、テーブルの上で指を組んだ。
 ローラーのぐるぐると回る音が聞こえる。洗濯が自動になったとはいえ、脱水だけは手で絞るか、あのローラーで押し潰すようにしてやるしかない。たまに土間で見かけるあれも、なかなかの重労働ではなかろうか。絞るものとローラーにかけるものを選り分けているのであろう颯太の姿を想像し、幸緒はまた大きな溜息を吐いた。
 電気洗濯機は案外にも長持ちしており、未だ現役であった。買ってからもう五年は経つ。そんなに長く颯太と共にいたのか――幸緒ははっとした。つまり、この家に彼が来てから六年間も、毎日似た様な事をして彼の時間が潰されてきたのだ。少年のやるべき事はもっと他にあるはず。したい事も多いだろうに。幸緒は一層居心地の悪くなる思いをした。君は、それでいいのか。
 居間の前の廊下を通りかかった颯太に慌てて声を掛ける。
「颯太、今日は出掛けないか。駄目だ、そんな事では。毎日毎日僕の世話ばかりしていては、なんだ……兎に角、辛かろう」
 この、口下手。声にならない唸り声が幸緒の喉の奥で痞えた。颯太は怪訝そうな顔で首を傾げている。案の定であるが、幸緒の本意が半分も伝わっていないようだ。
「好きでやってますのに」
 と呟き、颯太は抱えていた洗濯物を干しに広縁へぱたぱたと駆けて行ってしまった。
 幸緒は頭を抱えた。出方を間違えた。いや、言葉をちゃんと用意していなかった所為だ。このままだと颯太はまたいつものように昼食を作り、午後から四時間きっちり勉強に当ててしまう。吃り癖を呪った。もっと効果的な表現はあったろうに、ああ、唯、ただ。
「申し訳無くなるのだ、颯太」
「聞こえておりますよ」
 がたっ、と自分の椅子が鳴った。声のした方を見遣れば、颯太にあてがわれた方の部屋に通じる襖を半分ほど開けて、彼が不敵な笑みを覗かせている。向こうの襖は全開の様で、広縁から降り注ぐ春の陽射しが颯太の足元まで影を作っていた。
「独り言が大きいですよ、先生。――そんなに仰るなら、お暇を頂きましょう。どこへ連れて行ってくださるのです」
 そこまで考えていなかった。自分の無計画さにうんざりする。
 幸緒の視線は無意識にトースターにあった。それは、ふとした思い付きだった。
「山中商会に行こう」
 幸緒の意に反し、颯太は一層襖の向こうに引っ込んだ。半分だけ見えている彼の目が細くなる。
「先生はそうやってまた颯太に貢ごうとなさる」
「ちが、決してそんな含みは無い」
「山中商会へ行って何も買わなかった事なんてありましたか。トースターだってつい先日頂いたばかりですし、颯太の時計も結局洗濯機を買った直後に『七五三の代わり』なんて仰るから手前もつられて頂いてしまったではありませんか」
「や、ほんとうに、何も無い。何も無いから。唯の散歩だ」
「俄かに信じられませんね」
 と言いつつも、既に颯太は自分の鞄を居間のテーブルに置き、残りの洗濯物を干し始めている。
「や、待て、僕も手伝う」
 立ち上がった拍子に椅子が倒れたのを直し、幸緒は広縁へ駆けた。

 浅草は今日も賑わっていた。幸緒はここにならなんでもあると思い込んでおり、エンタテインメントを求める時は毎度のことこの街に来ている。
 奇抜なファッションの若い男女が多く行き交う。一史と同じ類であろう。颯太も洋装をして来ていた。一史とよくつるんでいた為に、どこかしら似通ってゆく部分があるのかもしれない。
 シャツの上に羽織ったベストが、彼の為に特別に誂えたかのようにびしっと似合っている。彼の左腕で幸緒がプレゼントした腕時計が光り、幸緒は胸がぐっと詰まるような感覚を覚えた。彼の背丈を見るに、数え歳十三とはとても思えない。この圧迫感は幸緒の身長が低すぎる所為もある。しかしながら、颯太は同い年の日本男児と並べると背丈のみならず雰囲気も大人びている。
 最早彼とは手も繋げぬ。スキップもいつの間にかしなくなっていた。三センチ程下、まだ颯太の目線がそこにある事に安堵する。これ以上大きくなられては息子の域を脱してしまう。そんな理解に苦しむ無意識下の不安に幸緒は気付き始めていた。

 山中商会に着くと、幸緒は早速物色を始めた。機械の事など全く分からないが、興味深くはある。颯太もそのクチのようで、棚を行き来し、部品の説明文を読んでは顎に手を当て神妙な表情を作った。
 いつの間にか颯太はラジオ部品の棚に挟まれ、店主と話し込んでいた。手を叩いたり、素っ頓狂な高い声を上げたり。仕草こそ普段の颯太と変わらないが、その表情の変化は幸緒も見たことが無い程に目まぐるしい。そこそこに広い店内でも二人の声がこちらまで届く程に盛り上がっている様子だ。
 手招きする颯太に気付き、幸緒は駆け寄る。
「ラジオって組み立てるものなんですね。先生、作った事あります?」
「いや、機械についてはてんで分からなくてな」
 そっか、と颯太は唇を尖らせた。後ろ手を組み、控えめな上目遣いは棚に向かう。
 颯太の目の前には、小ぢんまりとした角丸のラジオが展示されていた。木製カバーではあるが真っ赤な塗装で、全体的に愛らしい印象を受ける。
「一目惚れかね」
「そ、そんなんじゃないです」
 慌てて首と両手を横に振る。颯太の口調が乱れたのを、幸緒は聞き逃さなかった。あっという間に店主に必要なものを聞き出し、小切手で会計を済ませてしまう。
「ああまた、そうやって颯太を甘やかすんだから!」
「知らんな。僕が気に入ったから買った。それでは駄目かね」
 ぷっと膨れ顏をして見せる颯太を他所に、店主から部品の入った紙袋を受け取り店内から出た。

 陽は高く、そろそろ飯時だった。遅れて山中商会から出て来た颯太に、何が食べたいか訊いた。
「先生のお好きなもので構いませんよ」
「君の為に街へ出て来たのだ。君の好物が好い」
 颯太は大きく溜息を吐き、眉間に親指を当てた。
「分かりました。目玉が飛んでも知りませんよ」
 と言われたものの、颯太に腕を引っ張られ連れて来られたのはどこにでもありそうな洋食屋だった。メニューを見れば確かに他の似たような類の店よりやや高めの値段設定である気はするが、幸緒の財布が悲鳴を上げるという程でも無い。
 ふだん食材の買い出しでも、主婦との争奪戦に負けじと特売を見事に買い叩く颯太のことである。また、幸緒がこういった構えの良さそうな店に好んで入らない事も相俟って、颯太の金銭感覚は大層控え目なのだろう。
「貧乏臭い、と顔に書いてあります」
 と颯太は上目遣い、眉間に皺が寄る。
「いや、そんなつもりは無い」
 話題を変えようと、何がいい、と訊けば、颯太はメニューも見ずに頭を掻いた。
「え……と、カツレツ……一度食べてみたかったんです。この店はちゃんと本場の味を再現しているよって、一史君から手紙で紹介されて」
 聞けば、フランスに渡った一史が以前この店を贔屓にしており、現地でコートレットを食した時にその味を思い出したのだという。彼のお墨付きとあれば、期待が出来る。
 前菜をつつきながら、颯太は続けた。
「とんかつは以前ご馳走になりましたが、そのルーツがコートレットと知って。母の作るそれが好きで、よく強請って作ってもらっておりました」
 懐かしいなあ、と頬杖を突き、颯太は遠い目をした。瞳が午後の陽光を受け緑に輝く。その指は赤く透き通り、流れるような細い髪が銀に染まる。
 颯太が異国の血を引いている事に、改めて気付かされた。市井でも浮き立つ容貌。そんな彼が隣にいる事など幸緒にとって当たり前の事象となっていた。異人、ではない。ひとりの人間として。
 パンを好んで食べるのも、幼少の頃に習慣付いたものなのかもしれない。可憐な笑みで幸緒をよく家に招き入れた彼の母親を思い出す。颯太に瓜二つの陶器のような白い肌。栗色の髪を巻き、その肌と同色のエプロンを身に着けたその女性は、いつでも模範的な主婦であった。女中にも負けぬ程に家事をこなしていたという印象が強くある。その身に定められた母親という立場から、颯太を、家族を目一杯愛していたのだろう。

 メインが運ばれてくると、颯太の瞳が輝いた。丁寧にナイフで切り分け、そのひとつを口に運ぶ。途端に、首を傾げた。
「こんな味、だったのかな」
 ぽつり、呟く。静かにナイフとフォークを置き、目を伏せた。
「調理人が違えば調理法も異なりますよね。ううん、でも、母様の味、思い出せなくて……」
 ゆったりと、窓の向こうを眺める。その目はこの国でない何処かを見つめているようであった。
「なんて、なんだか、今日の手前は変ですね。感傷に浸るなど」
 颯太は幸緒にふわりと笑って見せた。髪と同じ色の長い睫毛が光る。それがどうにも哀愁を想起させ、幸緒は指を組んで俯いた。
「思春期とは、難しい年頃だね。君は甘え方が足らんのだよ。僕にこう、もう少し親らしい事が出来れば、いや、君が良ければだがね――ああ僕も、何を言っているのやら」
 颯太はふっと息吐き目を細めると、組んだ指を見詰める幸緒の顔を覗き込んだ。
「先生は分かりにくいお方ですね。颯太はそのお気持ちが嬉しいですよ」
 幸緒は頭を上げ何か言いかけるが、口をへの字に曲げてすぐに俯いてしまった。颯太はそれを見て、また、笑った。

 カツレツを完食すると、颯太は丁寧に両手を揃えて頭を下げた。
 幸緒はまだ自分の料理を片付け切れていなかった。前菜にしろメインにしろ、三分の一を残してフォークの先で弄んでいる状態である。
 食事に長い時間がかかる上、一口一口が極々少ない。先ず、味に飽きる。咀嚼に飽きる。それでも勢いがつけば一人前の量でも平らげないことはないのだが、なにぶん幸緒は内臓も弱々しい。早飯をした後の始末が面倒だった。
 幸緒は向かいの視線に気付き、料理から顔を上げた。
「食べるか?」
 にっと笑って「はい」と返事をし、颯太は幸緒の皿を自分の方に寄せた。再度手を合わせ、いただきます、と呟く。
 こういう事をするから背が余計に高くなるのだろう。成長期の男児は大食いだと聞いてはいたが、颯太も例に漏れないようだ。子供の育ちゆく過程とは、こんなにも愛くるしい。幸緒は颯太の頭に手を伸べかけ、つと止め、引っ込めた。颯太は最早そんな歳でもない。
 自分の掌を見詰める。愛でたいものを撫でる癖はいつからついたのだろう。幸緒自身は撫でられた記憶があまり無い。その、反動だろうか。
 ふと見やれば、颯太はテーブルに肘を突き、頭を幸緒に突き出していた。幸緒が身を引くと、颯太は頭をこれ見よがしに振って見せた。
「知っておりますよ。その癖」
 颯太の意地の悪そうな視線が刺さる。
「ば、颯太……まったく君は」
 ふんと鼻を鳴らした。袂から見え隠れする古い躊躇い傷など気にも留めず、幸緒は両腕を伸ばして颯太の髪に指を絡める。背の伸びてゆく颯太の姿に戸惑い、いつしか彼の頭を撫でる事もしなくなっていた。颯太の髪に指を滑らせる。最後にふれた二年前と同じ、柔らかな手触りだった。

 寄り道をする事もなく家路についた。紙袋が颯太の視界にちらちらと入る度に足が跳ねそうになる。それを見て、幸緒は小さく笑った。
「君は口には出さんが分かり易いね。嬉しそうで、よかった」
 きっ、と睨まれる。しかしすぐに表情を緩め、颯太は俯いて頬を赤らめた。
「してやられました」
「そうかね」
 家に帰り着くと、幸緒の上着を衣紋掛にかける事も忘れて、颯太は買ってきたばかりのラジオの部品を持って廊下を駆けた。彼の大きくなった後姿に目を細め、幸緒は縛っていた髪を解く。
 颯太は幸緒にラジオを組み立ててもらう事を最初から諦めていたようだった。幸緒が自室に飛び込んで行った颯太を追って襖を開ける。颯太は半田を片手、眉間に皺を寄せて一緒に購入した資料を読んでいた。それも数分も続かず、小さく溜息を吐くと資料を傍に置いて組み立てを始めてしまった。
 説明書を熟読せねば何も出来ないタイプの幸緒は、それを見て颯太に茶々を入れた。が、彼は聞く耳も持たない。部品ひとつひとつに話しかけるようにぶつぶつと呟きながら、颯太の手はてきぱきと仕事をこなす。幸緒はそんな彼を陽が暮れるまで飽きもせずに眺めていた。

「手順通りにやれば動かない事はないのです。四の五の細目語られようと颯太は知ったこっちゃない――ほら、出来た」
 つまみを捻るとざざっとノイズが入り、慎重に合わせていくと今日のニュースを告げるアナウンサーの声が聞こえて来た。得意気な顔を幸緒に向ける。幸緒はほうと感嘆の声を上げた。
「将来は電気技師かね」
「それもいいかもしれません」
 颯太はふふっと笑った。またも幸緒の右手は、伸べかけて引っ込もうとする。颯太はそれを両手で優しく掴むと、自分の耳に当てた。
「聞こえます。先生の脈が。生きて、おられる」
 以前に比べて、少し低くなった颯太の声。穏やかで、包み込むような。幸緒は顔が熱くなるのを覚え、俯いた。
 どうしたことか、胸が、高鳴っている。幸緒は自分の身体が訴えるものが掴めなかった。脈が早いのを颯太に気付かれては難儀だ。しかしおもむろに手を引っ込めるのも、おかしな所作であろう。悶々とした葛藤が幸緒の中で繰り広げられていた。
「今日は、ありがとうございます。手前、先生のお望み通り甘やかされてしまいましたよ」
 颯太ははにかんで、幸緒の手に頭を擦り付けた。
「そう、かね」
 それ以上言葉を続ける事も出来ず、幸緒は颯太に掴まれたままの右手で彼の耳の後ろを掻くようにして撫でた。視界の隅に映る颯太の微笑みが、眩しい。
 何気無く、颯太の視線が自身の腕時計を捉えた。時刻は八時半を指している。はああ、とやや高めの声を上げた颯太は、幸緒の手に重ねた両手を投げ出した。幸緒に向き直り居住まいを正すと、大袈裟に土下座をした。
「先生、申し訳ございません! お夕飯を忘れておりました」
 拍子抜けした。颯太が急に改まるものだから幸緒は思わず後退ってしまった。額を畳にぴったりと当てる颯太からは、さっきまでのしっとりとした雰囲気が一ミリ程も感じられない。心にぽっかりと穴を開けられたようで、幸緒は脱力する。
「は、なんだ、そんな事かね。僕は食わずとも良いから」
「そんな事を仰るから未だに痩せっぽちなのです。余り物で恐縮ですが、簡単に作りますゆえ!」
 半田をコンセントから抜き、颯太は居間を抜けて土間へ駆けた。幸緒は彼の切り替えの早さに、口が半開きになったままでただその姿を眺めるしかなかった。

 置いてけぼりにされた幸緒はそろそろと広縁に出て、バットに火を点けた。あたたかな春の夜風に伸びた髪が流される。
「生きている、か」
 それは幸緒にとって奇跡の連鎖にも思えた。こうしていま自分が、何に苦心することも無く、何が枷になることも無い生活をしている。自身の幼少を思い起こせば信じ難い事だ。
 すべてが颯太のくれた宝物。あの子が斉藤家に来てから何もかもが変わった。あらゆるものから解放されて、素直に一日を受け入れる自分がいる。
 恩返しをしたい。彼に何か分け与えてやれるものはないだろうか。今日の彼は、しあわせだったろうか――。何かに縛られる事のない一生を、颯太には送って欲しい。彼が望むのなら、自分の与えられなかったものを、体験出来なかったことを、すべて与えてやりたい。
 ラジオを組み立てている時の、颯太の楽しそうな表情を思い出した。完成したばかりの真っ赤な機械は、颯太の部屋で未だニュースを流し続けている。
「先生、お夕飯が出来ましたよ」
 居間から聞こえた颯太の柔らかな声に、胸が熱くなる。幸緒は頭を振ると、煙草の灰を軽く落としてから居間へ向かった。

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