独白【序】

 寒い。此の感情に氣附いたのはいつのことだつたらう。背筋に冷氣を當てられたやうな氣がして肩を抱けば、すぐに、胸の奧に氷柱を突き刺された如くの痛みが走る。肩を抱かずに放つておけば、己が融けて無くなつて仕舞ひさうな感覺に襲はれる。其れなのに、胸の痛みは増す許り。視線を下げれば疉だつた筈のものが無い。眞つ直ぐに、墮ちてゆく。恐くて怖くて、其の實、消えると云ふ事象には、震へる程の快感を覺えた。
 さうしていつしか、自分と云ふ存在がすつと離れる。身體は其處に在るのに、視界は窄まり殆ど何も見えず、私を罵倒する其の聲も、ぼわぼわとした纏まりの無いものに成る。次第に頭がぐらぐらと捻れて、最早何も考へ得る術を持てぬ。氣分は惡いが、其處から逃げる事が出來て私の意識は安らかだつた。逃げる事が出來るならば、あの身體抔如何成つて仕舞はうと構はない。

 夏だつたか、冬だつたか、其れすらも覺えてゐない。部屋は明るかつたから、きつと晝のことだ。長兄と些細な口論に成つた。もとい、口論であればまだ何かしやうがあつただらう。私は押される許りで、なにひとつ口に出來なかつた。兄妹で飴を分け合つてゐた所に居合はせ、子供心に、ちやうだい、と、言つた。慥か、其れだけだつた。
 長兄は直ぐに邪險な顏をして、私の首根つこを攫み、隣部屋の居間へ連れて行つた。唯一信頼してゐた作次兄さんの、はつと息を呑んだ表情に、私の全神經が注がれてゐた。助けて欲しい。分け與へて欲しい。そんなことを思つてゐたやうな氣がする。
 お前の分は無い。あの低い聲で言はれた。父によく似た聲だ。さうだ其のとき、私は無邪氣に、なんで、と訊いたのだつた。強かなものだ。何故も糞もあるものか。元來私の分抔、數に入れてゐなかつたのだから。
 ああ、冬だ。火鉢が置いてあつて、其の中に燒べてゐた木炭を、押し當てられたのだつた。意地の惡いことに、見えぬ所にやるのだ。叫び聲ひとつも舉げられぬ程、痛かつたのは覺えてゐる。如何せん急なことであつた。私の意識はまだ身體に貼り附いた儘で、そんな仕打ちを受け、非道く打ち拉がれて仕舞つた。
 何故、私許りが。そんな思ひが過つた。其の途端、私は獨りに成つた。己の肌の直ぐ外側から、暗闇が廣がつてゆく。之丈なら慣れてゐた。孤獨に堪へるのは容易い。私の意識が氷像に變えられ、少しの間眠るだけだからだ。併し、其れ以上の干渉は、して欲しくなかつた。痛めつけられれば、私は貪欲にも救濟を求めて仕舞ふ。求めた所で何物も與へられ得ることは無い。其れを知つてゐるからこそ、暗く深い澱みに嵌る。
 ふと、未だ乳離れも出來てをらぬ頃に海で溺れた事を思ひ出した。全身を拘束されたかの如く指一本の自由も利かず、隆起する潮に呑まれ、揉みくちやに爲れて、其の儘散り散りに引き千切られて仕舞ひさうな感覺が全身を這ふのだ。上も下も判らぬ。唯、恐怖、其れ丈が思考を支配する。
 恐る恐る地を見れば、罅割れた灰色の足場。ああ、と思ふ間にも、がらりと崩れた。石塊と共に、眞つ逆さまに墮ちてゆく。助けて、抔とも口に出來ぬ儘に、私の身體は劍山のやうな岩肌に穴を開けられてゐた。
 首根つこを放される儘に、私は崩れ落ちた。死ぬのではないかしら。力無く呻き乍ら、逆さの視界に映る景色を眺める。水底でも地の淵でもない、居間の卓袱臺が眼前に構へてゐた。次第に痛みも消え、視界が黒ずんでゆく。死んだら、樂に成れるかしら。私の顏は、微笑つてゐたやうな氣がする。其の後のことはよく憶えてゐない。きつと眠つてゐたのだと思ふ。

 氣が附けば女中の政が、私の手當てをして呉れてゐた。泣きもせぬ。最早飽きてゐた。斯うやつて政に手厚い保護を受けたのも、いつたい幾度目に成るか見當附かぬ。
「あんべ、どんげな」
 ヨードチンキを私の背中に塗り手繰り乍ら、政は「よかもんね」と私の頭を撫でる。私は直ぐに「よかもんなら、こげな境遇、知らんが」と獨り言のやうに反論した。よかもんなら、われや作次兄さんが救うて呉れるぢやろ。之は、言ひ損ねた。「政のてにやわんごつ」と取り繕へば、政は困つたやうに笑ふ。私が作つた許りの疵に觸れぬやう、優しく抱き締めて呉れた。其處で漸く、私は涙を零した。其れを見られぬやうに、政の肩に顎を載せる。
「こげな家來てうぜらしかろ」
「よざらんこと氣にすな。あたし、サチの涙好いたうけん」
 隠した處で、私が泣き蟲であること抔、此の少女は分かり切つてゐるのだ。其の上で、好きだ抔と言ふ。堪らず私は政からもがく樣にして身を引いた。
「好いたうのは、吉やん丈にしとき、政。浮氣は、なあんも面白うない」
「んぜまあ、しかしかむねえ。ませた奴ちや」
 政はからからと笑つて、私の尻をぽんと叩き、ふわりと離れて行つて仕舞つた。

 其の日も、晩飯は無かつた。父に犬の首輪を着けられ、其れは佛間の柱に繋がつてゐた。私が晩飯を與へられぬ樣に成つたのは、食ひ方の下品が直らなかつた所爲だ。〝一度言うた事は守れ〟。父の言葉だ。尤もであると思つた。
 喧しく鳴る腹を持て餘し乍ら、暇潰しに物語を紡ぐ。ペンもノオトも無い。空想に思考を飛ばし、其の中で泳ぐ。木々が風に搖れる以外は、遠く居間で聞こえる家族の聲。耳の詰まる樣な靜けさ。こんな状況でも、私は安らかな心地であつた。私に干渉するものは、いま、なにひとつ無い。頸許に重く壓し掛かる首輪が私の自由をほんの少し奪つてゐる。其れ丈だ。
「サチ、いいかい」
 落ち着いた聲に顏を上げれば、作次兄さんが其處に居た。私は嬉しく成つて、不器用な笑みを零して兄を迎へる。
「これ、外して來いつて言はれたんだ」
 敢へて、晩飯だの、首輪だのと云つた言葉を避ける。作次兄さんはさう云ふひとだ。何處迄も優しい、優しくて、弱いひとだ。偶に其れが堪らなく口惜しく成る。そんなに氣に掛けて呉れるのなら、今直ぐ此の身を掬ひ上げて、作次兄さんが大切にしてゐる金魚鉢にでも入れて欲しくさへあるのに。
「首、少し擦れて仕舞つたみたいだね。痛くはないかい」
 赤く成つた私の首に、兄の手が添へられる。私は頭を力いつぱい振つて応じた。そんな私の髮に手を滑らせ、兄は寂しさうに微笑んで見せる。其の表情が狡い。此の身の上が侘しいものである事に氣附いて仕舞ふ。泣きはしなかつたが、身體から力がふつと拔け、兄に抱きかかへられる儘に佛間を去つた。

 眠る前のひととき、作次兄さんの寢室に呼ばれ、物語を聞かせてもらへる事がある。身を寄せ、小聲で讀み聞かせて呉れる。束の間のしあはせに包まれるのだ。擽つたくて、少し儚い。
 歴史の研究をする兄は、度たび史傳を讀んだ。小難しい話である上、情動の描冩抔入る隙も無い。其れでも、動亂の時代に想ひを馳せ乍ら景色を組み立てれば、彼らの歩んだ歴史の中に一粒の切なる想ひが見えてくる。感服し、引き込まれ、終ひには涙さへ流して仕舞ふ。其の度に、「御前は豐かな心を持つてゐるね」と、兄は私の癖毛に指を絡めるのだ。
「眠く成つてきたかい」
 さう言はれて、自分の指が知らぬ間に瞼を擦つてゐたことに氣附いた。苟も子供である。當時私は七つの幼な兒であつた。
 作次兄さんの布團で一緒に眠れたらと、幾度となく思つた。少くとも作次兄さんからは、父や長兄のやうな汚らしい雄の臭ひは感じ得ぬからだ。清楚で、透き通つてゐる。其れが、私の作次兄さんに對する印象であつた。
 促される儘にそろりと足音、他の者に氣附かれぬ樣に、兄の寢室を出る。廣縁へ足をするり滑らせ振り返ると、作次兄さんは優し氣に微笑んでゐた。矢庭に手招きをするから寄れば、兄は袂をごそごそと漁り、晝間の飴を私に手渡した。食はずに殘しておいて呉れたやうだ。嬉しかつた。嬉しかつたのだが、如何にも兄にさうするやう仕向けてゐる氣がして、私は首を仕切りに左右へ振り、飴を突き返し、踵迄返して、急々と佛間へ向つた。兄の寢室から襖の閉まる音が聞こえたのは、私が毛布に包まれた時分であつた。

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