albedo

 じゅっ。という音。遅れて鼻を突く、蛋白質の焦げた臭い。ああ、と独り言ち、髪に煙草の火が当たったことに気付く。
 方々に伸びる自由なこの猫毛は、目に掛かるどころか口許をさえ容赦無く這う。飯と一緒に口に入り、颯太の長い指でそれを払われることも少なくない。
 熱を浴びてくるくると巻く一本の髪を摘まむ。広縁に降り注ぐ午後の陽射しに当てられてもなお、くすむ。少し爪を立てて引けば、焦げた部分がはらりと落ちた。
「また焦がしたのですか」
 はにかむような声に遅れて、白い足が幸緒の視界に入る。ことり、盆と床の触れ合う音。そっと茶を差し出され、幸緒は煙草片手にそれを受け取った。少しぬるめだ。
 焦がした。癖の様なものだ。それでも、この髪は切られることなく、背中まで流れる。この癖毛の感触が好きだと、幼い頃の君が言ったから。〝先生の髪って、柔らかいのですね〟。その一言だけで舞い上がって、今の今まで。本気で好きだったのだと、思う。この想いには、最近になるまで自分でも気付けなかった。
 ――恋なんていつだって、知らねえうちにはじまるものさ。
 美幸の零した言葉は、本物だったのだろう。教え子であった筈の、下男である筈の、苟も息子となった筈のひとを、いつしか求めるようになってしまっていた。焦がれ、罪深さに狼狽え、堪え切れず病んだ。その為にこの髪は、求めるひとでない誰かの手垢がついた。
「ほんとうに、良かったのか、僕で」
 唐突な幸緒の問いに、颯太はくすくすと笑った。
「昨日から何度目です? そんなに問い質されてしまえば、一途でも揺らぎますよ」
 俄かに恐縮した幸緒が見上げた先には、柔らかな微笑みがあった。一面の窓から射し込む光に照らされ、淡く金に輝く髪。目許はほんのり紅に染まる。そのカンバスは、透き通るような白。愛するひとに異国の血が流れていることを、改めて思い知らされる。
 膝に落ちた儘だった焦げた髪を払う。日の光を受ければ赤紫にすら染まる、純日本人の色をした癖毛。伸び放題で梳かされもせず、お世辞にも綺麗とは言えない。敵わないな、と思った。こんな自分の髪が、四肢が、昨夜はこの艶やかな少年に絡み付き、焦がされていたなんて。

 ――貴方が女だったら良かったのに。
 きっと可愛い子供が、と続けるや、暢気な颯太の口許は幸緒の手で塞がれていた。尚も、笑いが込み上げる。颯太の流し目の先に、真っ赤に染まった耳が震えていた。
 妖艶に誘う繁華街では、果てれば去るか瞼を閉じてしまう夜を過ごした。枕元で交わされる睦言。幸緒はこんな習慣が恋人たちの間にある事を知らなかった。あたたかくて、気恥ずかしくて、寝入るのも勿体無い程の安寧。颯太と結ばれて、幸緒はそんなしあわせの瞬間を見付けたのであった。
 こんな日々を手に入れられるとは思いもしなかった。誰かとの心の触れ合いなど、諦めていた。親を亡くしたが為に匿ったこの少年も、ふつうの男として立派に生き、いつかは嫁を貰うなりして自分の許から離れてゆくのだと、信じていた。それなのに、君はこの身を選んだ。あり得ないと思っていたし、彼への慕情に明け暮れても、ただ期待するばかりでしかない筈だった。
 欲しがって嬲られたから、欲しくないと嘘を吐き、無欲が染み付いてきた頃に図らずも手に入ったところで、それは直ぐにこの手から零れ落ち、消える。その繰り返しだった身の上に、唐突にしあわせの欠片たちが降り注いで、信じられる訳が無い。陽光を受けて融ける君の微笑みに、嘘を、探してしまう。

 不意に抱きすくめられた。幸緒の肩に置かれた颯太の左腕から、時計の音。彼が子供の頃に贈った腕時計は、二人の関係が変わっても休まずに時を紡ぐ。すべての事象が地続きで、この身に迫るのだ。浮いていた身体が急に重くなり、すとん、と降ろされる。颯太に抱き締められて、幸緒はそんな感覚に包まれた。
「先生――いえ、サチヲ。手前が昨夜言ったこと、覚えていますか」
 ――よく聞いておいて。颯太は、貴方のものです。
 甘く囁かれた声。九つの暮れに変声期を迎え、漸く大人に近付いたばかりの少年が口にした言葉。
「柄にも無いことを、言ったね」
「ひどい。手前にだって、独占欲くらいあります」
 すっと離れた温もり。颯太は幸緒から視線を逸らす事なく、隣に腰をおろした。膝を立たせ、その上に頬杖を突く。急にひとりにされ狼狽える恋人の様子を観察するかの如く据えられた、深緑の瞳。ふふっと微笑み、颯太は思い出したように両手を打った。
「ああ……そうだ、お身体のほうは、大丈夫なのです?」
 悪戯めいたにやにやとした笑みが幸緒に向けられる。何が、と口にしかけて、昨夜彼を中で果てさせてしまったことを思い出した。その為に今朝は腹痛で飛び起き、土間から出てきた颯太と鉢合わせ、赤面を隠すように慌てて書斎にとんぼ返りするなり布団に丸まって身体の痛みに堪えたのであった。
「――知るか。思い出させてくれ給うな」
 三本目のバットに火を点け、ぷっと吹く。矢庭に透き通った指がそれを掠め取り、そのまま桜色の唇に運んだ。不器用に煙を吸い込む。幸緒がその様子に瞠目していると、颯太は煙草片手、幸緒の肩にしな垂れ掛かった。
「貴方に毒されたのです。サチヲ」
 悪い親だなあ、と独り言ち、颯太はくすくすと笑った。少し俯いた途端に、じゅっ、と音。愈々おかしく思えて、颯太は堪えるように口許をおさえる。
「そろそろ髪型、変えようかな」
 少し長くなったおかっぱを、白い手が揉む。縮れてしまった部分に指が這う。焦げてなお金に光る髪が、はらはらと落ちた。
 以前よりその色は濃くなったようにも見える。この家に迎え入れたばかりのときは絹のようであった颯太の髪は、経年するにつれ茶と緑を絡めてゆく。まるで陽を受けて輝く海のように、季節や時間に染まる。
「……坊主は、似合わんだろうな」
「モダンにしてもらいますよ。初恵さんに」
 先生に切らせたらめちゃくちゃなんだもの、と続けて、颯太は幸緒の肩に頭を押し付ける。
 恥ずかしさに俯けば、不意に視界に入った自分の手。痩せ細り骨張った指。こんなものを、好いてくれる。幸緒はそれを躊躇いがちに伸べ、恋人の柔らかな髪に絡ませた。

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